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2022.01.13

なぜ?から知る各国の教育材料 ラオス01

ラオス Lao People’s Democratic Republic

 

建築物からラオスの歴史を知る

「アヌサーワリー・パトゥーサイ」がパリの凱旋門に似ている

ラオスの首都ビエンチャンを訪れた多くの人は、どこかパリに似た街、という印象を持ちます。ラオスとフランスとの関係は深く、その歴史は19世紀後半の帝国主義時代に遡ります。ヨーロッパ列強がアジア各地を次々と植民地にしていくなか、フランスは1899年、ラオスを保護領としました。

 そのフランスの影響の象徴が、パリの凱旋門によく似た「アヌサーワリー・パトゥーサイ」です。戦没者の慰霊碑として建てられたものです。後に王政を廃止し共和制へ移行、慰霊碑は「勝利の門」を意味するパトゥーサイと呼ばれることになりました。荘厳な姿はビエンチャン随一の観光地となっていますが、門自体は未完成の状態です。

 フランスの影響が見られるのは「パトゥーサイ」だけではありません。この凱旋門から南側に続く直線通りの景色はシャンゼリゼ通りに似ており、ビエンチャンでパリを模して都市計画が進められたことがうかがえます。

 ヨーロッパの東南アジア支配の歴史を勉強するとき、パリの凱旋門とパトゥーサイの写真を並べることにより、興味を抱かせるのも一考です。

 

外国語は必ずしも英語でないことから、ラオスの国の成り立ちを知る

ラオスは言語が多様

日本で外国語といえば英語が一般的ですが、ラオスでは多様な言語がコミュニケーションに使われています。5か国に囲まれた内陸国という地理的な環境にあり、また、大国に翻弄された歴史があります。

 1353年に初めて統一国家として成立したラーンサーン王朝は、およそ350年間の繁栄後、3つの王国に分裂し、タイやカンボジアに支配されることになりました。19世紀になると、タイの支配下にあったラオスの3王国は、隣国に対抗するためにフランスと手を結びます。その後、第二次世界大戦では日本、ベトナム戦争ではアメリカに翻弄され、1975年に現在のラオス人民民主共和国が誕生します。

 フランスとの歴史的な関係の深さから、かつてはフランス語放送のテレビ局もあり、特に高齢のラオス人にはフランス語を理解する人が見受けられます。

 また、地理的環境から、多くのラオス人がタイのテレビ番組を日常的に視聴しています。ドラマなどを楽しみながら、ごく自然にタイ語に親しみ、多くのラオス人がタイ語を理解します。内陸国のラオスでは隣国の文化に触れる機会が多く、その環境がコミュニケーション手段にも影響を与えていると言えます。

 

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